神戸いずみの会 公式ブログ

「神戸いずみの会」は、1982年から続く患者会です。

2019年2月例会

 2月の例会は、ぽかぽかと暖かく、明るくいいお天気になりました。今回はAさんに、ご主人のことを中心にたくさん語っていただきました。

 

・(Aさん 女性)先月は家の整理のことで忙しくお休みをしたので、12月以来です。お正月は、長女の家で楽しく過ごしてきました。
 夫の一周年は、家でささやかな記念会をしたのですが、それから毎日、夫の写真をかばんに入れています。どこへ行く時も一緒です。引越しした時も、「今日で終わりよ」って写真に見せましたよ。
 笑っているこの写真のとおり、夫は穏やかで、大きな声で怒ったことがなく、喧嘩しそうになると、「ここでやめておこう。喧嘩はきらい。特にあなたとは喧嘩したくないから」と言う人でした。3カ月の入院のあと、2週間我が家で過ごし、私が看取りました。入院中に食事がとれなくなり、胃ろうか点滴かを決めなくてはならなくなった時、本人が胃ろうを選びました。そうなると、私がそのやり方を完全にマスターしなくては退院できない、ということです。いろいろと手順があって、何本もの管や用具をすべて清潔に消毒して乾かしたり、注射器を使ったり...全部覚えるのが本当に大変でした。できるようになった時、「マスターした人の中で最高齢ですよ。がんばりましたね!」って、褒めてもらいましたよ。家では訪問看護婦さんやヘルパーさんたちがフルに訪問して下さり、「こんなに贅沢なことはない」っていう状態でした。そうやってたくさんの方々の手を借りながら、24時間ずーっと付き添いました。痰の吸引も指導を受けて私がやりました。
 そうは言っても、家ではほとんどの時間は私一人でしょう。夜中でも20分寝て起きて、また30分寝て起きて...という状態でした。先生からは、「あと1週間あの介護が続いていたら、奥さんが倒れてましたよ」と。でも多くの助けを得られましたし、それに夫から「また生まれかわったら、あなたと一緒になりたい」というすばらしい言葉をもらいましたから...。だから苦になりませんでした。
 夫は常にどこかに触れていてもらい、安心したかったのでしょう。いつも片手は手を握ったり、やせこけた肋骨をさすったりしていました。その感触が今も残っています。
 最期の時、讃美歌を歌ってあげたんです。すると不思議にすーっと表情が穏やかになったので、私は声が枯れるまで、30分も歌い続け、そんな中で夫の喉仏が動かなくなり、すーっと穏やかに召されていったのです。その瞬間の時刻を確認する余裕があるほど、私は落ち着いていました。だからその場で泣き崩れることもなく、その後の疲れで倒れることもありませんでした。喪主としての告別式でのご挨拶も、涙なくつとめることができました。今はおかげさまで健康が守られています。→(Bさん女性)在宅は24時間の付き添いでたいへんだったでしょうけれど、入院されている時の方が、お辛そうでしたね。→(Aさん)そうなんです。病院に夫を残して帰るのが本当に辛くて。行くと「やっときてくれた」と、うっすら涙をためていることもあったんです。本当に辛かった。一周年を終えて、ようやく家の整理をしたら、ドラック5台分もありました。30年以上ですからね。荷物を出すのは辛かったけれど、「あちらの世で使ってくれる」とイメージして処分したら、納得できたようで、気持ちの整理がつきました。今、その時々で、いろいろと書きとめたメモがたくさんあるので、それを集めて文章をまとめてみようと思っています。

・(Cさん 女性)先月お話をしていたボクシング、はじめましたよ! ボクシングをやろう! という発想になったことが、自分でも不思議なんです。殴りたい、蹴りたいという気持ちがあって。やってみると、すごく気持ちよくて、面白いんです。女の人も多いですよ。スポーツ苦手な私なのに、いつまでも悲しい自分の人生を殴りたい、しゃがんでいる自分を殴りたいって気持ちを発散させています。